all our tomorrows

自由に生きる現代女子を応援するリレー連載ブログ

27歳 エクイティセールス

現在、私は某日系証券会社のアジア・日本株式の機関投資家向けセールスとして、スイスのジュネーブ支店に勤務して3年目になる。新卒として入社して、株の機関投資家営業という仕事を始めてからは6年目になる。あまり意識せず、金融のことも全くわからないまま始めたけれど、気付いたら同じ事を6年もやっていた。

 

20104月に始まったジュネーブでの暮らしは私にとって初めての海外在住経験。(旅行、海外ボランティア系では既に30カ国以上訪れていたが)ジュネーブという特殊な街の性質のせいで、初めは色々大変だったが、現在はどうにか慣れて、仕事面でも何も出来ず辛かった2年弱を経て、ようやく普通に働けるレベルになってきた。

第一、元々希望していた海外勤務で、厳しい金融業界の中としては恵まれた環境で働かせていただいているため、支店長、同僚、友人、お客様、と、支えてくださっている周りの方々には毎日とても感謝している。

 

就活の時にこの仕事を選んだ基準は、「海外勤務を経験出来る可能性が高い」「常に新しいことに触れていられる」「人と話す、外に出ることが要求される」「朝早起きで規則正しい生活を実現できる」などといった適当なものだった。あまり内定をもらえなかったので、ありがたく受け入れていただけた現在の企業に勤めることになった。

 

幸運にも、希望して配属された日本株の機関投資家営業は、朝7時前にはオフィスに入り、毎日休みなくお客様や社内のアナリストと話し、頻繁にミーティング等に出かけて、無理のない程度に接待、世界と日本のニュースについていかないと株式市場に置いて行かれるし、何せゼロから始めたので毎秒が新しい学びと出会い…と、営業なだけにストレスは多かったが、3年目になると希望のライフスタイルを確立して楽しく過ごしていた(今思い出すと、1年目と2年目の前半まではなかなかうまくいかず、毎日落ち込んでいて辛かったが)。

 

お客さんが好きで仕事も何となく楽しい、東京での一人暮らしが好き、沢山の素敵な友達がいて、お気に入りのボクシングジムに行くのに夢中・・・3年目としては概ね生活に満足していた。しかしどうしても実現させたい海外勤務の夢は変わらず、もやもやしていた。

結婚して子供が産まれて、将来子供に「お母さんはね、昔、これがしたかったのよ」と話している自分・・・にだけはなりたくない!

海外で働きたい。

 

そんな2年目の終わり、突然内示をいただいた。

ジュネーブに行けと言ったら、行くか?と部長に言われ、喜んで!と寸秒で返事。

遂に願っていた機会をもらった。

全くスイスの知識もイメージも先入観もなかったけれど、とりあえず荷造りをして渡欧。

私のジュネーブ生活が始まった。

 

しかしそれは全く簡単ではなかった。まず英語が大して話せない私は、英語で投資家に電話することが出来るようになるまで相当時間がかかった。喋れないので自信がなく恥ずかしい、そして更に緊張して電話しても更に喋れなくなる。

これが引き金となり、初め(というかつい最近まで)はこれまでの人生で味わったことがないほどの長さで辛い時期が続いた。

 

同僚のセールスは当時7人(今は何とリストラで半分)。みんな近くに座っていて、みんな日中はシーンとしている。みんなが他の人の電話の声を聞いていて、じっと品定めしているみたいに感じる。日本人のお客さん(スイス在住の日本人ファンドマネジャー)にさえ電話がはばかれるほどで、本当は電話をしたい私は本当に辛かった。

第一、営業の性格上、お客さんとコミュニケーションをとらないとゼロ以下、マイナスである。

元々お客さんと話すことが好きで楽しくて3年間東京でやってきたのに。

自分の語学力のなさ、周りの目を気にする性格が仇となり、一方でローカルセールスは自分の客を渡そうとしないのでいつまでたっても数人しか担当顧客がいない、新規開拓もいまいちうまくいかないという環境も追い討ちに。

 

何もうまくいかない・・

 

オフィスで席に座っているのが辛い。次第に出来るだけ早く帰り、仕事以外の時間を楽しもうとして、こちらで始めたサルサに傾倒、それ以外は昼も仕事後も毎日ジム、などと運動で紛らわそうとしたが、やはり一日の大部分を占める仕事がうまくいかないと、何も楽しくない。

 

元々自分に自信がないのに更に自信がなくなって、毎秒毎秒自分は落ちこぼれだと感じていて、私の存在意義は何だろう、そもそもこれまで何をしてきたんだろう、これからどうしたらいいのだろう、毎日鬱々と考えていた。状況は全然変わらなくて、どうやって変えるかもわからない、エネルギーも勇気もなかった。東京で一丁前にアカウントマネジャーをやっていた自分、ブローカーレビューで一位をもらっていた自分はどこにいったんだろう・・

 

それから何かが劇的に変わったわけではない、同僚3人がある朝に一気にリストラされると共に欧州大陸支店をジュネーブ以外全部閉める欧州大再編があったこと、私たちの仕事内容もそれに伴い大きく変わったこと、このご時勢に客の取り合いで支店の収益獲得機会を損なっている場合じゃないと支店全体の意識が協力的に変わったこと、支店長が変わったこと(何と駐在2年半で3人の支店長を経験!激動の時代の駐在員である)、それに伴い新しく担当顧客を振り分けてもらえたこと、など小さい変化の積み重ねが、状況を変えていったのだと思う。

 

一番偉大なキーパーソンで本当に感謝しているのは今の支店長。

去年の12月にジュネーブ支店の支店長として来て、私の仕事を見て言ってくれた言葉が

 

「勿体ないよ。」

 

それは初めて聞いた言葉で、ずっと力を生かせてなくて悔しいと思っていた私の気持ちと現状を、すぐに理解してくれたことを知った。そして改善すべく色々な顧客担当を割り振って、今日まで怒って褒めて面倒を見てくださっている支店長と働けて、本当に幸せだと思う。

 

今は任せてもらえる投資家が増え、支店長の大きな営業電話の声の隣で、前より堂々と(でもまだ周りの耳を気にしてしまう私)電話して、お客様と少しずつコミュニケーションや討論が出来る機会が増えた。これまでの2年間に比べたら地獄から這い上がってきた一般人、というぐらいの変化を体験している。仕事では必要ないけど趣味でフランス語も勉強中(フランス語圏なので・・しかし難しい)。パリ顧客も担当を始めたので将来生かせたり・・するほどのレベルにはまだ遠すぎだけれど・・・。

 

何はともあれ、まだ仕事では出発点に立ったところでしかなく、且つ環境として日本株の商い低下と不人気化、ひいては株式市場全体が縮小しかねない中で、どうやって支店の収益に貢献していけるか、どうやったら私たちのスイス、フランスにおけるアジア株ブローカーシェアを上げていくことに貢献出来るか、どうしたらお客さんの信頼を勝ち取り維持出来るか、どうしたらもっと出来るセールスになれるのか、課題は山積みである。

 

業界でもまだリストラの波が止まらず、ここにいさせていただくからには実力を上げなければいけない。難しいが、今頑張りたいと思えることは大変恵まれていて幸せと思う。

 

そしてその後は・・?考えなきゃと思っているけど、まだ結論は出ていない。

とりあえず目の前のことを一生懸命やっていたら、それで漠然とアンテナを張っていれば、何かに出会えるというのが持論だけど・・・

 

記:ワミッタラコラコット

 

↓今年の10月初めに父・妹が欧州に来て旅行、これは@ピサの斜塔。大好きな二人とのショット。昨年の母の死を経て、残りの家族の絆がより強まったと思う。

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28歳 証券会社内勤

とてもフワフワした生き方をしてきたと思っている。タンポポの綿毛のような。

少しの偶然は関係しているかもしれないけど「こうでなくてはならなかった」という必然はあまりなかった気がする。
全力で働きたいという気持ちは昔から持っているけれど、証券会社勤めが天職だと思ったことはない。(あ、転職はしました)

2000年代前半に高校生活を過ごし、2007年に新卒として中堅の証券会社に入社した。そう、別に入りたかったわけではない。たまたま英語が得意なだけで、大手の企業を受けてみたけれど、内定が取れない。

ベッドで膝を抱えて電話をしたのは親友Tだった。

「女の子は証券とITが向いているから受けてみれば?頑張っていれば割りと評価してもらえる風土みたいだし」

彼女のアドバイスもあって金融機関を受け始めた。総合職で内定がとれた証券会社で働くことに決めたけど、会社のために尽くす気持ちもなく、踏み台にしようとしか思っていない。そんなことは絶対会社に言わないけれど、年数を重ねるうちに見抜かれていたであろう。

入社して引受部門に配属された。証券会社は直接金融の機能を持ち、企業や国・自治体などの資金調達(株や債券などの形で)を手助けするのが重要な役割のひとつである。まさにこの、株や債券を発行する事務手続きを行う部署に配属されたわけだが、ほぼ毎日新規発行銘柄のリスト作り、不本意なお茶くみなどに追われ、会社が楽しいとは全然思えなかった。ネチネチした同僚にも神経をすり減らしていた。

単調な仕事ではあったが、他部署の人ともつきあいが広がり、日々作成しているリストが顧客提案資料のベースになっていると知り、少しずつやりがいも感じ始めていた。地味な仕事を継続することの難しさ、重要性を新人のうちに学べてよかったと思う。

楽しくなり始めた頃に突然の異動(サラリーマンにとってそれはいつも前触れなくやってくるものだけど)。折りしもリーマンショックと重なり、半年間社内失業のようになってしまった。これはつらい。無為に過ごすことは相当の苦痛だった。
親友Tは大手証券で機関投資家相手にセールスで大活躍している。私には何ができるの?会社を飛び出すにもまともに履歴書を埋めるだけの経験すらない。知識もない。

もう会社に頼るのをやめよう。確かに人材育成に熱心な会社だったとは言い難く、今いる大手証券会社に比べても研修やジョブローテーションの制度はお粗末だった。当時からそれは不満だったけど、それを言い訳に努力を怠っていないか。少しずつでもわからないことは勉強していけばよかったのに、私は逃げていた。

次に配属されたのは債券部外国債券課。日本国外で発行されたさまざまな発行体(国・国際機関・一般企業など)さまざまな通貨の債券を扱った。独学で証券アナリスト試験の勉強も始めた。財務・会計/証券分析/経済と幅広く学習するが、日常業務とリンクする部分も多く、面白くなっていった。業者間市場での仕入れや在庫の処分のほか、毎日支店向けに販売・買取価格の提示、販売促進用資料の作成、支店からの問い合わせ期末は全社で外国債券をはじめとする手数料厚めの商品に注力しがちなこともあり、忙しくなった。そんな中でも自分のペースを守り、テスト前は朝ファミレス/昼会議室/夜カフェの三つのうち二つは勉強するような
日々を送った。
(注:債券とは有価証券の一種で借入証書のようなもの。金利や信用力に応じて価格が変化する)

それでも一年半もすれば人間慣れてくるもので、周りを見渡す余裕も出てくる。それなりに英語で調べ物もするし、マーケットに関わる仕事は楽しくもある。自分が知識をつけていくのは時にやっかいなもので、同僚の学習意欲の低さ、勉強不足にうんざりすることも。
扱っている商品も、仕入先の外資系証券にすごく抜かれているのも心穏やかではなかった。具体的にどれだけ抜かれているかも知りようがない。
モヤモヤを感じるようになった。いつしか会社に対する不満ばかり口にするようになっていた。赤字で雀の涙のボーナス、不安定な会社の経営、前途の見えないキャリア。信頼できる人に何度も相談していたけれど、ついにキレられた。

「世間から見たらそこが君の居場所だし、正当な評価なんじゃないの?大手にいる人はもっと経験も積んで努力している」

ショックだったけど、事実だった。イヤなら自分から動かないと。もう卒業なんだ。この年次で外国債券関連の業務を三年経験し、証券アナリスト資格も取った。気がつけばいいタイミングだった。

転職活動では心が折れそうになりながらも現在勤めている大手証券に内定をもらうことができ、そろそろ一年になる。米国証券アナリスト資格(CFA)も30歳までに合格したいし、ロンドン勤務もしてみたい。今は仕組債(デリバティブを組み込んだ債券)の英文契約書をにらみながら取引内容をチェックするのが主たる業務だ。

この業界はかつて(今でもそれなりにあてはまる)三年で三割が辞め、十年で半分が辞めていくと言われてきた。
業界に足を踏み入れて五年半が過ぎた。もう少し、行けるところまで行ってみたい。

 

記:N

 

↓親友Tと先月訪れたブルガリアのリラ僧院にて。不正発覚の意味合いもあり、まとまった休みが取りやすい(取らされる?)のも証券会社のいいところ!

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25歳 大学職員

23歳の春、私は人生のなかでとても重要な決断をした。

これからの人生を根本から変える決断だったけれど、決断した時は今だと思ったし、どうしてか分からないけど、今決断しないともう後はないと思った。

 

大学時代の交換留学先で出会った彼と遠距離恋愛を続けていた私は、日本の会社で1年半働いた後、会社を退職してイギリスの大学院へ進学した。

自分のしたかった勉強をするためと、何よりイギリスでの彼との生活を築くためだった。

 

彼とはお互い将来結婚したいということはほぼ確定していたけれど、私が大学院に通っている間、まずは2人で生活をしてみようと2人で話し合った。

 

私の親は当然私の決断にびっくりして、いろいろ心配をしてくれた。 今でも親の支えには本当に感謝しているし、あの時の親のサポートがなかったら、ここまでこれなかった思う。 友達からの温かいサポートもあった。

 

最後は、彼と直接会って安心してくれたのか、私が決めたことならと後押しをしてくれた。

 

 

 

なにもかも投げ出してではないけれど、後戻りができないと思って自分の生き方の舵をとったのはこれが始めてだったと思う。(何かあった場合は日本に戻ってきて再び就職活動をしてというオプションもあったけれど、私はまずは後戻りはできないと思って頑張りたいと思った。)

 

今までも、大学に行って、就職してと、その時々で決断をしてきたけれど、今まで、こうしていきたいとか、こうなりたいとか、自分はどうしていきたいのかといったことは考えていたようで考えていなかったのかもしれない。

それより、あの人のようになりたいとか、あの人のような形跡を残したいというように、自分と他人を比べては焦る時期が多かった。

 

大学卒業後に一番に希望していた会社に就職できた私は、そのことに感謝してがんばろうと思った。でも、頑張れば頑張るほど、何かが違うという思いは強くなり、次の異動が来るまえに決断しようと、思い切ってイギリスに旅立った。

 

イギリスに来たから何もかもが解決したというわけではないけれど、今はイギリスの大学関連の会社で働きながら、夫と生活している。2人とも定時に帰って、夜ご飯を一緒につくって食べたり、友達と会ったりする。今までは定時に帰るのに抵抗があったけれど、今はみんな競うように定時に帰って行くので、私も負けないように定時に帰る。同僚と話していても、今日はxxxをする、今週末はxxxをするという会話が楽しい。 こんな一日一日が今は大切に思えるし、良く考えたら私が一番ほしかったものかもしれない。

 

私はまだまだ経験していないことがたくさんあるし、えらいことが言えるわけでもないけれど、女性の生き方って本当に多様だし、これが正解ってないと思う。

 

ただ、なんでもいいから自分がこうしたい、こうなりたいって思ったら、ちょっとした何かでも一歩を踏み出してみると何かが変わることって本当にあると思う。

 

これから自分にどんな出来事が訪れるかは分からないけれど、前向きに前を向いて頑張っていきたい。

 

記:ゆみの

 

 

↓写真は大学でとった一枚。とってもかわいくて思わず手のひらにのせたくなっちゃいます。

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27歳 大学院生(2)

2年間勤めた会社を辞めて、私は今、大学院の博士課程に通っている。

よく、「なんで会社を辞めたの?」と聞かれるから、その場の会話の雰囲気により「軽め」と「重め」の理由を用意している。

 

「軽め」…会社の上司と合わなかったから

「重め」…このまま会社にいても「こうありたい」自分像に成長できる気が全くしなかったから

 

といっても、この二つにそんなに大きな違いはなくて、辞めて半年経った今思うのは、結局のところ「そういうタイミングだったから」ということだと思う。

それでも、転職をするなら3年目まで待っていた。転職市場で渡り合える力は私にはまだないと知っていたから。大学に戻るという選択肢が出たのは、やっぱりあの震災が一つのきっかけになった。

 

1年前の春、ちょっとした病気で手術・入院をしていた。

歩き回るのもやっと、という状態で退院させられて(このことに関して病院に色々言いたいこともあるけど、それはまた別のお話)、実家で鎮痛剤常用しながら、療養していたときに、大きな揺れを感じた。

マンション上層階で、今起きているのは何なんだろうか、というぐらい揺れて、たまたま一人だった私はただただ耐えるしかなかった。その怖さはしばらくの間ちょっとした地震でも甦るくらいショックだった。

 

そのあと、災害について色々な情報が増えていって、多くの人と同じように自分の人生について何度も考えるようになった。

実際の被害の大きさを思うと、とても比較にならないし、口に出してはいけないような気もしたけれど、確かに自分の中の全ての価値観が一回ひっくり返されたように感じた。

 

その中で、この先どうやって生きたいかを考えたときに、私は、少なくとも若い(といってももはやそんなに、だけど)内に色んなことを経験して、学んで、成長していたいと思った。

それは、入社前には予想もしなかったくらいの閉鎖的な職場では無理だと感じた。

加えて、私自身の成長の核となるような、唯一長所といえる点が会社に入ってからどんどん失われていく危機感もあった。このままだと「そこそこの自分」で手を打ってしまうような気がした。

 

そんな中、思い切って行った入学説明会で大学の先生たちとお話しして、なんだかほっとした。

もちろん、利益を生み出す責任のある会社と、授業料を払って研究をする大学とではそもそもスタート地点が違う。

でも、やっぱり色んな人とディスカッションして、あれこれ試して、結果を導き出すプロセスが好きな私にとって、研究という環境が本当にあっているんだな、と今は思う。そして、昔から変わらない「環境問題を何とかしたい!」という想いを実現する一歩もようやく踏み出せた実感もある。

 

 

この頃、よく友人たちと話をすると、仕事のこととか、将来についての話になる。そんな中で、会社で色々あるけどもう少し今の環境で頑張る!!という私からしたら眩しい選択をしている子が多くて、さすがだなぁ~と思う。やっぱり、自分の中では、「続けることができなかった」、というひっかかりがまだ残っている。心のどこかで、「我慢が足りなかっただけで、次も同じことを繰り返すのでは?」とか、「自分は高い理想を求められるだけの努力をしているのか?」って問い続ける声があって、焦ることもある。

 

退職を考え始めてから、自分の中で優先順位をつけていくことができるようになった。自活できるだけの給料をもらえて、特に残業もなく、休日は美術館や旅行に行ける仕事。ぱっと書き出して、これで満足できないっていうのも贅沢だな、と思う。

でも、私のなかで「何が一番大事?何がしたい?」という問の答えにはならなかった。なにがなんでも一生働き続けたい、までの強い意思はないけれど、それなりの時間を費やす仕事に関して「そこそこ」という選択肢はなかった。もちろん、その順位はその時々の状況や気持ちで変わりうるものだし、だからこそ失敗もする。でもせめてそこに柔軟性は持たせていたいと思う。

そして大事なのは、振り返った時に「自分で選択した結果なんだから」っていう思い切り、覚悟を持てるか、だと思う。それは決して諦めではなくて、自分で選択したことに対する責任感。よくよく考えれば、これは高校で教わった自主自律の精神!

いざというとき「これだけやったんだから、何とかなるさ♪」って思えるポジティブ精神を持てるように、自由に育ててくれて、今もサポートしてくれる親には感謝している。

 

今、私の両手には何もない。

この先どうなるかは全く分からないけど、「自分の頭で考えたことを確実に実行していく研究者」になりたい気持ちは持ち続けて、大事な何かをきちんと捕まえられるよう、がむしゃらに進んでいきたい。

 

記:mich

 

↓「明日を変えるモーメント」from ‘ Don’t Wanna Lie’ 人生の転機って、ポンッと背中を押してくれるタイミングが、実に何気ないときに訪れるもんだなと思う。

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28歳 大学院生(1)

20112月—

『私はアカデミックに残るのではなく、企業に就職をする』

それが私の決めた自分の進路だった。

 

大学を卒業後、大学院の修士課程に2年間在籍し、

3年間の博士課程に進んだ私は、このまま大学や研究所で研究者の道を進むか、

それとも企業に就職をするか考えていた。

 

その時の私に影響を与えた出来事は、

自分の論文を出す目処がたったこと

ママさん研究者の姿を実際に目にしたこと

2つだった。

 

自分の論文を発表してみて

大学院の博士課程に進んだからには自分の論文を発表する。

それがみんなの目標で、そのために時間も関係なく一生懸命実験する。

就職を決断したのは論文の修正がほぼ終了し、

自分の一番の目標を達成する直前だったと思う。

次の目標は何にしよう・・・

そう考える余裕が出来て初めて自分のやりたいことを見つめ直した。

研究者として新しいことを発見し、論文を発表、

その業績を元に研究費を獲得して、また新しいことを発見する資金にする。

そのサイクルは将来何かを生み出すには絶対的に必要なことで、

誰も知らなかったことを発見した時の達成感は何者にも代え難い。

でも目の前の目標に向けて頑張りたい私にはあんまり向かないかな・・・。

それよりも企業人として、

研究した成果を元に物を生み出し、それが誰かの役に立つ方が、

目標が分かりやすくて私には向いている気がした。

大学4年生の時から大学の研究室を出て癌研究を続けて来た。

5年間病院に隣接する研究所で研究をし、毎日患者さんの姿を目にして来た。

患者さんのためになるものを作る仕事が出来ればいいな・・・と単純に思った。

 

ママさん研究者のそばにいて

研究者の世界は女性にはかなり厳しいものなのだということを実感したのは、

小さい子供を持つママが研究室に来てからだった。

2人いたママさん研究者のうち1人は出産してから1年ちょっとで研究者を辞め、

堪能な語学を活かして弁護士事務所に転職した。

もう一人は研究者を続けているけど、

任期3年のところを2年で辞め、他の研究所に移って行った。

その研究室の教授によるのかもしれないけれど、

私が所属している研究室の教授はいわゆるクラッシャー上司で、

自分の思い通りにみんなが動いてくれないと怒鳴って責める。

「最初は子供のこともあるから時間は自由に使っていいよ。」

と言っていても、子供の体調不良等で遅刻早退が増えると

「仕事が進まなすぎる。やる気あるんか!?」

と怒鳴ったりする。

もちろん教授が出産育児経験者の女性である研究室や、

子育てにとても理解のある男性教授の研究室もあるけど、

研究者は基本、自分の業績だけを糧に生きて行く職種である。

だから出産や育児で研究にブレーキがかかると、次の仕事も見つかりにくい。

特に最近は終身雇用のポジションなんてほとんどないから、

若いうちに子供を産んで、育てながら次のポジションを探すのは至難の業だ。

子育てに理解のない教授もまだまだ多い。

いくら女性研究者支援の予算が割り当てられるようになっても、

やはり周りの理解がなくては制度の意味がない。

自分にとって結婚や出産がリアルに感じる年になって、女性研究者の厳しさを痛感した。

やっぱり企業だな・・・ママさん研究者の姿が私の決断を後押しした。

 

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教授にキレられながらながらも就職活動をやり通し、

念願の製薬会社の内々定をいただけたのは今年の4月。

今は「裏切り者!」とか教授に言われながらもなんとか研究を進めている。

まぁ、週に3回も4回も怒鳴られればかなりキツいけど・・・

ここで負けたくない!!っていう意地だけでやってる感じ。

 

土日も関係なく教授からの電話やメールが来て、

ピリピリ、イライラしながらも続けていられるのは、

生活を支えてくれる家族と、息抜きの時間を与えてくれる友達、そして彼の存在があるからだと思う。

 

大学2年生の頃から一緒にいる彼とは今年で7年目。

ずっと側で見守ってくれている。

ここ5年くらいは、平日は実家、週末は彼の家という週末同棲状態で、

荒れたりへこんだりする私の話を聞き、

ちょっとのんびりしたアドバイスをしてくれている。

研究室に入ってからは、いつ教授から電話が来るか分からないし、

実験の手を止められないしで、

旅行に行っても最長12日。

デートの途中で研究室に走って行ったことも何回もある。

常に私の都合に合わせてくれる彼の行きたい所へいつかゆっくり行こう、

それが密かに考えている私の恩返し。

面と向かってはなかなか言えないけど、

これから先もずっと一緒にいられたらいいな。

いつもありがとう。

 

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研究者ではなくても、女性が生きにくい世界は沢山あると思う。

その中で新たな道を作って行くのも、

自分らしく生きられる別の道を探すのもどっちもステキ。

 

来年の4月からは28歳にして初社会人。

薬が出来るのは30000分の1というとても低い確立で、

定年まで働いたけど世の中に薬を届けられなかったっていうこともザラにあるけど、

自分が決めた道をまずは全力で駆け抜けたいと思う。

早く4月にならないかな〜。

 

 

記:オカモト

 

↓週末の夜はここに座って色んなことをおしゃべり。私の充電タイムです。

 

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28歳 病院勤務

「お父さんに、会いたい」

子どもじゃあるまいし。
今さら、ねぇ。
と理性が言いそうになる。

でも、「会いたい。」それが本音。

・・・


父と母は私が2才の時に離婚した。
父には、それ以来会った事がない。
当時2才だった私の記憶には、父の顔はない。
小学生の頃だったか、祖母に父と母の結婚式の写真を
見せてもらったことが、あったか・・・なかったか。

なんとなく、ぽっちゃりめ、背は小さめ、そんな印象。

確かそれは集合写真だったし、色あせていたから、
はっきりはわからなかった。

母は昼夜問わず一生懸命働いてくれて、
私は留学までさせてもらった。

水泳、習字、そろばん、塾、エレクトーン・・・
やりたい習い事もたくさんさせてもらった。

一緒に住んでいた祖父母にも愛情をたくさんもらい、
やっていいことと悪いこと、ちゃんと教えてもらった。

町内のお祭りにも毎年かかさず参加して、
近所のおばちゃんやおじちゃんにもたくさんの愛情をもらった。

父がいないからといって寂しい思いをしたことはなかった。(父の記憶がない。)
片親だからと言って、自分をかわいそうに思うなんて、一度もなかった。

・・・

高校生位になって、なんとなく、たったの一度だけ、
「お父さんに会ってみたいな」と、祖母に言ったことがある。

「お父さんにはもう新しい奥さんがいる。子どももいるみたいだし、
あなたが出て行くことで相手の家庭を混乱させてしまうかもしれない。」

それ以来、「父に会いたい」と言うことはなくなった。

・・・

そんな私も、自分のやりたいことを自分で選び取っていく、
基本ポジティブで幸せな大人になり、
長らく父のことなど考えることもなかった。

でも、海外で生活しているとよく聞かれるんだ。

「あなたのお父さんはどんな人?」
(父と母の関係が変わっても、子どもにとって“父は父、母は母”、という感じ。)

「父のことは知らない。会っていないし。」と言うとびっくりされ、
「会った方がいい。だってあなたのお父さんよ。」と言われる。

・・・だよね。わかってる。

でも、「今さら」という気持ちと、
「会うにしても、いつ、どうやって会えばいいのよ?」という思いが入り混じり、
今のところ「会う」には至っていない。

今、私は青年海外協力隊で中央アフリカに来ている。
エイズの患者さんの専門治療病院で、
受付や秘書や、全般的な病院の業務改善をしている。

完全に、やりたいことをやっている。
幸せである。


この間、ふとしたきっかけで、知り合いのご家族のお宅に招待された。

これまたふとしたことがきっかけで、父の話をすることになった。
なぜだか、涙がこぼれ落ちそうになった。

大人になればなるほど、忘れていくだろうと思っていた「父」の存在は、
私の期待とは反対に、その存在感を増していく。

「会いたい。」

知り合いのご夫婦に諭された。

「お父さんに会うべきよ。」

やっぱり。言われると思った。

「でも、お母さんの気持ちも配慮しなくちゃね。
お母さんを傷つけちゃいけない。
あなたが知らない、つらい思いをして別れているかもしれないから。」

母を気遣うようにと言ってくれる人は初めてで、
ちょっとふいをつかれた。
その通りだ。本当、大事なお母さんが傷つくのは、見たくない。

でも、大人になればなるほど大きくなる、「父に会いたい」気持ち・・・

だって、私の半分を形作っているのは、紛れもないその人だから。


協力隊の任期が終わったら、日本に帰る。

私は、父に会いに行くのだろうか?

まだ、わからない。
正直、ちょっと、こわい。

でも、いつか父と顔を合わせられる日が来るのなら、
その時は、胸を張っていれる自分でいたいって思う。

そのためには、感謝の気持ちで一日一日を大事に過ごすこと。

そして、今後の仕事や結婚など、多くのことに悩む今、
自分としっかり向き合い、何をしていくのが
自分にとっての本当の意味での「幸せ」なのかを考えること。

幸せそうに見える「誰か」と同じ道を選んだって、
私が幸せに感じるとは限らないから。

そして、私の「幸せ」を喜んで選び取っていく。


そしていつか、父に会う時が来るとしたら・・・

願わくば、笑顔で、今までのこと・お互いのこと、
たくさん話したい。

でももし、それが難しいのならば、

一言、
「自分の人生に悔いはありません。私、幸せです。」
って・・・うそ偽りなく、言えたらいいな。

お父さんとお父さんの家族の幸せを、遠くから、祈ってる。


記:ななな



↓結婚式@たまたま通りがかった教会。私もそのうち♡ 

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